神社について

ご祭神

本 殿

主祭神 罔象女神(みづはのめのかみ)
相殿神 伊邪奈美命(いざなみのみこと)伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)

東 殿

大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)(天照大神)
譽田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)

西 殿

開化(かいか)天皇(てんのう)上筒男命(うわつつのおのみこと)
菅原道真(すがわらのみちざね)公・綿津(わたつ)(みの)(かみ)
大国主神(おおくにぬしのかみ)事代主神(ことしろぬしのかみ)

ご神徳

ご祭神「罔象女神」は、伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)伊邪奈美命(いざなみのみこと)夫婦神の御子神にして水一切を司る神様です。水利の神・水の祖神として、「水」に関わる物事に広大無辺なご神徳をあらわされます。

古くは雨師の神として、人々は五穀の豊穣、特に(ひでり)続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど水神のご加護を祈ってきました。

丹生川上神社の歴史

今を去る事1300年余り前、第40代天武天皇白鳳4年(675)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により、創祀せられました。

事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、『延喜式』(927)には名神大社として、平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一社に数えられています。そして、近代においては官幣大社に列せられました。

丹生川上神社の奉幣祈願は、天平宝字7年(763)5月28日「旱続きのため、幣帛を畿内四か国の神々に奉り、そのうち丹生川上には幣帛に加えて黒馬を奉った」(『続日本紀』)という記述によって歴史上に初めてあらわれます。以後、応仁の乱の頃までには九十六度もの祈雨奉幣祈願があったと記録にみられることから、当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。
しかしながら、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような奉幣祈願も中断され、丹生川上神社はいつしか蟻通神社(※)と称され、ついには所在地さえ不明となってしまいました。

※蟻通神社の社名は「天皇の吉野離宮行幸の様子が、遠目にアリが通っているように見えたこと」によるとされています。

丹生川上の地

明治維新後、所在不明とされた丹生川上神社の研究調査が行われました。調査では、明治4年(1871)に丹生村(現在の下市町)、続いて明治29年(1896)には川上村の神社が有力視され、それぞれ官幣大社丹生川上神社下社・上社とされました。
しかし、大正11年(1922)当村出身の森口奈良吉翁による「蟻通神社こそが丹生川上神社である」と定義した研究調査が認められ、当社が官幣大社丹生川上神社に列格され、通称「中社」と位置づけられました。
ここに従来の二社に当社を加え、ひとつの「官幣大社丹生川上神社」となりました。そこで「官幣大社丹生川上神社」の社務所を当社に移して、下社・上社を統括して祭務を行なってきましたが、戦後神社制度の変遷によって三社は独立。当社は「丹生川上神社」と登記され、それぞれの社名をもって別々の神社となりましたが、氏子の気持ちに寄り添い、三社あわせて「丹生川上神社」として今日に至っています。

萬歳旛(ばんざいばん)について

丹生川上神社の神域には「夢淵」があります。『日本書紀』によれば、神武天皇大和平定の折、戦勝祈願のため丹生川上の地で厳瓮(いつべ)(御神酒を入れる瓶)を夢淵に沈め、お酒に酔った大小の魚が流れる事により勝利を占われた伝承地とされています。この時、水面に浮いて流れ出た魚こそ「魚」に「占」と書く「鮎」でありました。
天皇陛下御即位御大典に用いられる萬歳旛に丹生川の水面と厳瓮、そして鮎の模様が施されているのも、神武天皇の伝承による当神社由来のものです。

萬歳旛(ばんざいばん) は即位礼正殿の儀などの際に東西に置かれ、即位礼には紫宸殿に大小26旛旗が立てられます。この時使われる旛旗の中の一つに萬歳旛があります。
萬歳旛は中央に「萬歳」と金の糸で刺繍が施された赤地雲形文様錦の旛に、上方には鮎と厳瓮が刺繍されています。この「萬歳」という文字は、大正の御大礼では伏見宮(ふしみのみや) 貞愛(さだなる)親王殿下の御染筆が刺繍となっています。

丹生川上神社と絵馬

丹生川上神社は絵馬発祥の神社のうちの一社と伝わります。雨師明神・水神宗社として、雨乞いには黒馬を、雨止めには白馬又は赤馬が献上されました。水の神に馬を奉ることが、のちの現代にみられる絵馬の起源とされ、祈りのかたちのひとつとして多くの人々に浸透しています。